初めまして。龍郷じねん神経整体院代表の山田修司と申します。

SNSなどでは「修さん」とか「修司先生」とか呼ばれています。

ご存知の方も多いと思いますが、今、僕は鹿児島県と沖縄県のちょうど真ん中に浮かぶ離島、奄美大島に住んでいます。

この記事ではそんな僕の想いや生い立ち、決意を書いています。自己満足な記事かもしれません。しかし、僕にとっては宝物のような記事になりました。

溢れる想いがたくさんありすぎて、長くなってしまいましたが、皆さんの貴重なお時間で読んで頂けたら嬉しいです。

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地元の海

僕は奄美大島で生まれ、高校卒業後、進学と就職で島を離れた後、奄美大島に帰り、2019年に奄美本島内の人口約6000人の町「龍郷町」で 神経整体とよもぎ蒸しのお店を開業し、夫婦で営んでいます。

お店では、僕が柔道整復師という資格を持ち、整体という仕事を担当し、妻がよもぎ温熱セラピスト、たんぱく質スープアドバイザーという資格を持ち、よもぎ蒸しと栄養サポートを担当しています。

僕は整体という業務をしているのですが、僕は身体を整えることだけを目的に整体を施しているわけではありません。

一番大切にしたいのは「こころが整う」ことです。

僕自身がこれまで生きてきた中で、病気やケガを経験し、どんな状況でも一番大切なものは「こころが整っている」ことだと感じてきましたし、そう感じたキッカケを皆さんに共有させて下さい。

僕のこころの真ん中にあるものを赤裸々に綴っていきたいと思います。

目次

  1. 病気と怪我から僕が學んだこと
  2. 突然立てなくなった小学5年生
  3. 先の見えない真っ暗な入院生活
  4. 光は突然やってくる
  5. 野球にはまり、再び訪れる試練
  6. 再び真っ暗闇へ。
  7. 抜け出すキッカケは自分自身の中にあった
  8. 僕の存在意義
  9. こころの琴線に触れる出来事
  10. 僕が生きる意味

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病気と怪我から僕が學んだこと

突然立てなくなった小学5年生

僕は1989年生まれ、今年36歳になる歳なのですが、5歳上に姉がいます。

僕の両親は子供が出来にくく、姉を妊娠する前も、僕を妊娠する前も流産を何度も経験した中で、僕ら姉弟は生まれました。

姉はとても慎重で頭が良く、とても周りが見える子でしたが、僕は真逆で、勉強よりもとにかく遊び、そして、運動が大好きでした。

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幼少期の僕

小学生時代は毎日、奄美大島の素晴らしい自然環境の中、川や海、山を駆け回りながら、とにかく何でもいろんなスポーツに挑戦し、楽しんでいた毎日でしたが、ある日、風邪をひきます。

何ともない普通の風邪でしたが、とにかく遊びたいので、早く治したい僕は、母親にお願いして病院に連れて行って貰いました。

薬を処方され、それを飲み、安静にしていましたが、その夜、突然高熱と身体中の発疹、強烈な関節痛で歩けなくないほどに状態が急変しました。

両親に両脇を抱えられ、なんとか歩いて町のかかりつけ医に。

かかりつけ医の先生に「これはすぐ県立病院の救急に行きなさい」と言われ、救急で奄美で一番大きな病院に運ばれ、そのまま入院生活が始まりました。

先の見えない真っ暗な入院生活

入院生活が始まっても、毎日の高熱と関節痛、発疹、そして、毎日決まった時間帯に嘔吐、そんな日々が続き、原因を突き止める検査が始まります。

しかし、どんな検査をしてもこれと言った原因が見つかりません。

毎日毎日きつそうにする僕をみて、小児科の先生も両親も、とりあえず楽にする為に、強いストロイド剤を使って、楽にした方が良いか、しかし、まだ子供。副作用も何があるかわからない、やっぱり原因を特定した方が良いのか、何度も対話を繰り返してくれたと聞きました。

そして、小児科の先生は原因を特定してから薬は使いましょうと決断してくれました。

しかし、何度も何度も検査をしても分からず、分からないまま1ヶ月が過ぎました。

僕も今子どもがいるのですが、もし自分の子どもがそうなったらと思うと、とても不安で心配になると思います。

入院している間、父親は毎日病室に泊まってくれ、病院から出勤。朝、母親や叔母たちと交代し、僕を見守ってくれました。高校終わりの姉が漫画を買ってきてくれたり、僕は家族にとても深い愛情に包まれていたと思います。

しかし、それでも僕の原因は分からず、症状も良くならず、鹿児島本土の大学病院に行くことになります。

光は突然やってくる

父親と入院セットを準備し、鹿児島の大学病院へ。入院は覚悟で行っていました。

診療室に呼ばれ、大学病院の先生がこれまでのデータと僕の様子をみて、

「おそらく、若年性関節リウマチだね。ちょっと投薬で様子を見てみよっか」

そんな言葉を貰いました。

嬉しくなった僕は大学病院の公衆電話から

「お母さん、入院せんで良くなったよ!しかも、病院代もかからんくなったよ!」
と心がウキウキして、すぐに電話したことを覚えています。

若年性関節リウマチとは現在は「若年性特発性関節炎」という名称になっており、国の指定難病です。

国の指定難病なので、治療費もかからなくなったことと、毎日毎日不安な顔をして病院に来てくれた母親を安心させたかったのと、不自由はなかったですが、特別裕福な家庭でもなかったので、子供心ながらお金のことを気にしてたんだと思います。

後から聞くと奄美の病院でおそらくこれだろうというところまで絞り込んで、指定難病の可能性が高い為、鹿児島の大学病院で認定を受け、状態が悪ければ、入院ということだったみたいです。

そして、そこから驚異の回復をします。約2ケ月苦しんだ高熱と関節痛がぐんぐん消えて、身体中にあった発疹がきれいさっぱり無くなりました。

薬の副作用で太ってしまいましたが、どんどん元気になった僕はこころに、ふっと想いが湧き上がってきました。

「これからはなんでもやってやろう。なんでも挑戦しよう。」

こんな想いを強く感じたことを覚えています。

野球にはまり、再び訪れる試練

僕は小学二年生からソフトボールをやっていて、退院後、再びソフトボールを再開し、その次の年、タイミングよく地元に少年野球チームが出来ることになります。

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小学生時、ソフトボールの試合

早速入団した僕は、父親が保護者会長になったのもあり、初代キャプテンになります。

そこから野球に熱中しました。中学に入ると2年生でレギュラーを貰い、3年生が引退すると、キャプテンに。

肩が強く、足も少し速かったので、地元でも少しだけ注目されていました。

しかし、そんな中、利き腕の右肩を亜脱臼するケガをしてしまったのをキッカケにその後、何度も亜脱臼してしまい、中学校では投球禁止令が出てしまいます。

僕は野球も大好きでしたし、キャプテンという責任も自分なりに感じてたのもありますが、何でもやってやると決めていたので、投球禁止で試合にでないという消極的な選択より、左投げに変えて試合に出ることを目指すという積極的な選択をします。

実はこの積極的な選択をした裏には、小学生の入院時に姉が買って来てくれたMAJORという野球漫画がキッカケです。

そこから、猛練習して、最後の大会前には、レギュラーを再獲得。

病気から学んだ積極的な姿勢で1つ試練を乗り越えた経験でした。

再び真っ暗闇へ。

ケガ以降、中学時代は右肩で投球することなく、左投げで乗り越えながら、僕は高校野球に向けて、利き腕の筋力トレーニングは継続していました。

甲子園に出たかったので、鹿児島本土の高校へ。

ある程度、投球は出来ていたので、大きな期待と少しの不安を抱えて、野球部に入部します。

しかし、そこで再び亜脱臼をして、病院へ行くことになります。そこで、ショッキングな言葉が僕を襲いました。

「靭帯が切れていて、手術しないと治らない。競技復帰まで最低でも半年はかかる。完全に全力投球できるまでは1年は見た方が良いです。」

これは結構堪えました。

もちろん左投げでも挑戦しましたが、高校になると軟式ボールから硬式ボールに変わり、その変化に細かい感覚が付いていかず、コントロールが出来なくなりました。

自信があった走力も鹿児島の高校では平均より少し早いくらいで、友達も先輩も知り合いも誰もいない鹿児島の高校で少しずつ踏ん張れなくなってきました。

大好きだった野球が嫌になってきて、大好きな野球を嫌になってる自分も嫌になってきました。

そして、野球を辞めました。

どんどん自己嫌悪になり、野球が出来ない、もう野球をしないなら、奄美に帰ろう。

高校も中退し、奄美に帰ることを決めました。ここからの3年間は僕の人生でも最もつらい時期でした。

奄美に帰り、高校だけは、卒業しておこうと、1学年下の子たちと再び受験し、入学するも、周りの目が気になったり、とにかく生きてる意味が見いだせないくらいだったので、常に無気力、何事にも無関心。

欠席、遅刻、早退を繰り返し、毎年留年対象者。

当時は「野球をしてない自分、挫折して無気力になってる自分になんて価値がない。何の為に生きてるんだろう。」

そう毎日思っていましたし、今思えば、とてもこころが病んでいました。

抜け出すキッカケは自分自身の中にあった

なんとか追試や両親、先生のおかげで高校3年生になり進路を考えるようになり、高校時代に終わりが見え、少し希望が見えてきて、

「何がしたい?どんなことがしたいんだろう?」

そんなことをようやく考えるようになり、僕のこころの中からこんな声が聞こえてきました。

「この島に僕のような想いをする子供を作りたくない。」

これが今の仕事を目指すキッカケになっています。当時は「僕がこころを病んだのはケガをしたから、ケガを治せる場所を奄美に作りたい」という単純な考えでしたが、当時を振り返ってみると「居場所」が欲しかったんですよね。

ケガが治らなかったとしても、これからのことや辛いこと、苦しいことを話が出来る「居場所」が欲しかった。

誰にもこの苦しみを言えなかったし、分かってもらえないと思って、ずっと自分の中に閉じこもり、自己嫌悪になってた3年間はとてもつらかったです。

だからこそ、そんな荒んだこころが整うようなそんな場所をつくる仕事を目指し始めました。

僕の存在意義

こころの琴線に触れる出来事

それから、東京の専門学校に接骨院で働きながら通い、卒業後は福岡でも就職し、奄美に帰ってきます。

奄美でも就職し、会社員として接骨院で働き、院長、暖簾オーナーとして店舗を任せて貰ったりしながら、独立。プライベートでも結婚し、子供も生まれました。

そして、2019年、ついに地元で開業。開業後も爆発的に人気が出たわけじゃありませんが、予約もお断りが出てくるくらいコツコツ順調にやっていました。

とても有難いことにお客さんは来てくれるし、仕事が嫌いなわけじゃない。ただ少しづつ心身が疲弊していく感じもあり、なんとも言えない少しの違和感がこころにはあったのです。

独立から2年くらい経った時に少し休みを増やし、休みの日に読書をしていた時に、不思議な出来事がありました。

読んでいたのは中村天風さんの「運命を拓く」という本で、この中村天風さんは“天風哲学”といってこころの重要性を説いていて、この哲学は松下幸之助さんや稲盛和雄さんに影響を与えています。

その本を読んでいた時に僕のこれまでの人生で起きた病気やケガの意味が分かった気がしたんです。

僕が病気やケガをした不都合な現実の時にも、逆境を乗り越えた自信溢れるときにも必ず「こころ」の状態が影響していますし、自分自身もそのこころの変化に気付いています。

でもよくよく思い返してみれば、こころの状態が整っていなかったから、病気やケガが訪れたんじゃないかって腑に落ちたんです。

もし、神様という存在がいるのなら、「あんたそんなこころの状態じゃ、幸せに生きていけんよ」って不都合な現実の病気やケガを与えてくれることで、そう教えられた気がして、そう思うと何か大きな存在に守られてたんじゃないかって、涙が止まんなくなったんです。

僕が生きる意味

僕はそんな大切な経験をさせてもらったからこそ、この世の中が良くなるための1つのピースとして、貢献できることがあるし、それが僕の使命だと思っています。

僕の使命は「こころが整う」そんな場所を作ることです。

僕がこころを整えるんじゃなくて、自ら然るべき状態にこころが整ってしまうそんな場所を目指しています。

その為に僕はいつも“対話”をとても大切にしています。議論じゃなくて、対話。何が正しくて、何が正しくない、正解か不正解かの議論ではなくて、自分のこころの中にあるものをありのまま話すことが出来る安心の場。

そして、話していくことによって自らが自分のこころに気付き、受け入れ、こころが真ん中に整ってくようなそんな場と対話をとても大切にしています。

そして、身体の専門家としても言わせて頂くと、身体が整えばこころも整うし、こころが整えばからだも整います。

これは僕の信念でもあります。

だから、僕が生きる意味は「こころが整う対話と整体」

これを世の中に提供していくことなんだっていう想いが、僕のこころの真ん中にはあるんです。

揺れ動くこころが真ん中に戻る場所があれば人生なんだって出来る

こころもからだも一緒なのですが、僕は整えるってことはガチっと固めることだとは思っていません。

こころもからだも外部の環境に影響されたり、状況によって揺れ動くものです。逆に揺れ動くからこそ、強いんです。

例えば、木でいえば「柳の木」柳の木のように風が吹いても美しく揺れ動き、風が止めばまた凛とたたずむ、そんなこころや身体が僕は整っている状態だと思ってるんです。

真ん中にしっかりたたずむ軸がしっかりある上で揺れ動く。そんなこころであれば、人生どんなことにも挑戦していけるし、幸せで豊かに過ごしていけるんじゃないかって思うんです。

しかし、現代社会はなかなか自分のこころと向き合う時間や状況が少ないって思いますし、純粋に忙しい。優先してそんな時間をとってる人も少ないでしょう。余裕がないというのあるかもしれません。

過去の僕のように

・自分の価値が見いだせない
・自分が何をしたいのかわからない
・頭やこころの中でずっと考えや感情が堂々巡りしている
・こころが安定しない
・いつも消極的になってしまう
・他人の目や評価ばかりが気になる

そんなお悩みがある人にはこころが整うそんな居場所が絶対に必要だと思っています。

僕という存在がこの世の中において、「居場所」であれるような在り方でいたいといつもこころから思っています。

そんな僕は今、この素晴らしい環境がある奄美大島で自然に触れて生きていたり、愛する家族とかけがえない毎日を過ごしていたり、そして、趣味ソフトボールや釣りをこころから楽しむことが出来ています。

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息子との釣りの時間が大好きです。
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ソフトボールも楽しんでます。

想いを書き綴ると長くなってしまいました。とても自己満足な記事かもしれません。

しかし、僕のこころの真ん中にある僕の想いが、あわよくば誰かのこころの真ん中をくすぐる記事になって届いてくれたら、嬉しく想います。

これからは奄美のお店だけじゃなく、オンラインを利用して皆さんのこころが整うそんな場所をサービスとして提供していくので、もし良かったら、僕を是非チェックしていてください。

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あ、もちろん全国各地から奄美大島の僕のお店に「こころが整う対話と整体」を受けに来てもらうのも大歓迎です。

栄養と神経から身体を変える神経整体・栄養サロンjinen奄美唯一の神経整体とよもぎ蒸しのお店。神経の伝達と血流を良くして、数々の不調を改善します。4hked.hp.peraichi.com

貴重なお時間を使って、ここまで読んでくれて本当にありがとうございます!奄美大島からの皆さんの「こころが整う」発信をコツコツ継続していきます。楽しみにお待ちください。